東山道ハイク第2弾。昔からの交通の要所

レポート

23日㈭、古代東山道歩きの二回目を行いました。二回目となる今回は、馬牛沼から白石城までの約7km(寄り道したので実際は9km)です。斎川をメインに、白石城下へと向かっていくイメージです。

朝9時、大河原から初参加のWさんと合流し、馬牛沼を出発。Wさんは、中世を専門に日ごろから街道に興味をもって勉強しているそうで、この付近を通った東山道も、馬牛沼の東を通るものと西を通るものの二つの説があると教えていただきました。私たちはとりあえず平凡社「地図で見る 古代の東日本」を参考に東ルートを選びました。

馬牛沼には、田村麻呂が斎川で斎戒沐浴したことや田村麻呂の馬が沼に落ちて死んだこと、田村麻呂がこの辺りで悪さをしていた鬼を退治したことで田村神社の創建につながったことなどが書かれた説明板がありました。さっそく田村麻呂伝説です。

この石標はのちの奥州街道がここを通っていたことを伝えている

国道4号を北上すると、中世の城郭「萬行楯城跡(馬牛沼館跡)」があり、説明板には、交通の要所を押させる重要な場所であったことが書かれていました。峠など、このような道を抑える場所にはよく山賊が住みつき、往来する人間を狙って悪さをすることがあるので、田村麻呂が鬼退治をした伝説も、あながち事実に基づいたエピソードかもしれません。

萬行楯城跡(馬牛沼館)
ちょっと前までは食事処があったけど、今は取り壊しされていた

ここから横断歩道を横切り、斎川宿へと向かいます。ここには甲冑堂と田村神社がありました。田村神社は、先ほど触れたように、鬼退治をした田村麻呂に感謝し創建した神社で、祭神は田村麻呂です。甲冑堂は、義経の家来である佐藤継信・忠信の妻「楓・初音」の甲冑像が安置されているのだそうです。女性が甲冑をつけているのが面白いですね。また、この神社の前後には、孫太郎蟲の供養墓や鬼ずるす石などもありました。

甲冑堂。中は見れなかった
馬が死んだ後に、村人が田村麻呂に馬を与えのにちなみ白馬を奉納
孫太郎蟲は歴史をさかのぼると平安時代の中期ごろ?
鬼ずるす石。前方の山が岩肌となっており、鬼が岩をぐりぐりと動かし人間をすりつぶしたのでそう呼ばれたらしい

ここから先へ急ぐと、奥州街道の斎川宿に入りました。まっすぐの道が続き、街道筋の面影がのこり気持ちがいいです。越河に続き、明治天皇が休憩された検断屋敷も残っていました。越河からは約6kmです。

明治9年の東北巡行の際に、明治天皇が休憩されたところ
越河に引き続き、磐城國刈田郡の石碑を発見
昔の自販機
住民の方にも話を聞けた

斎川宿から再度国道に出たあとは、しばらく国道沿いを歩いていきました。国道沿いには、道祖神や白山神社、金華山碑などがあります。白山神社境内には、青麻三光宮の碑が!青麻信仰が各地に広がっていた一端を垣間見ることができました。

男根がこんなにはっきりとあるとは!さすが、道祖神
青麻の文字を見てテンションがあがった
金華山詣でに行った記念でしょうか

道の駅計画が進むエリアを横目に、ローソンのあるところで旧道に向かいました。小休止したローソンからは国道越しに鳥居が見え、その丘陵部にあるのが泰衡館跡だそうです。大河原のWさんが詳しく、頼朝の奥州合戦時に、藤原泰衡がここに館を構えた場所だと教えていただきました。やはり軍事上の要衝で、軍勢はここを通るしかなかったのでしょう。

また、この街道筋では、脇に入って大平郵便局で阿保原地蔵、白石城下で片倉小十郎ゆかりの傑山寺や仙台真田氏ゆかりの青林寺を見てきました。

道の駅建設予定
使われていない旧道を進む
鳥居が見える山に泰衡が館を構えた
阿保原地蔵。歯に霊験があるとWさん
ここにも清水が入った地名
常英山傑山寺。片倉小十郎像
片倉小十郎の墓標は杉の木だった
法言山青林寺。真田の家紋。

こうして、目的地である白石城へと到着しました。前回に引き続き白石区間を歩いてみると、歴史を伝える説明板や城下の街並みを活かした町づくりの様子などが見えてよかったです。一方で、空き家が増えている状況や閑散としている駅前の様子などを見ると、このまま保存にお金をかけていけるのか厳しい現状を見た気がします。

ともあれ、探し回って最後にたどり着いた「白石うーめん やまぶき亭」、最高においしかったです!小旅行の帰りにローカル食。これルーティンにしましょう!

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