東山道ハイクの幕開け!古代ハイウェイの幻影を追う

レポート

17日、古代東山道を歩く一回目を行いました。東山道と言っても、起点となる近江国(滋賀県)から歩くわけではありません。宮城県内に限っています。これを月に1回、一年以上かけて白石市から栗原市まで縦断するもくろみです。

東山道県内ルート 地理院地図を加工・編集

利府トレイルプロジェクトを推進している私がなぜ東山道なのかという点については、また今度記事にしたいと思いますが、ただ一つ言えるのは、東山道も利府を通っており、利府にとっても重要な道だということです。主催者側、プロジェクト発起人としては、それだけでやる理由はあるのです。

ところで東山道を歩くと言っていますが、その遺構はほとんど見つかっておらず、あくまでこの辺だろうと推定した道です。確定したものではなく不確定なものにアプローチしていく、下見なし、出たとこ勝負で、何を感じるかはその人次第です。とは言え、土台となるものがなければ始められないので、そのルート選定にあたっては、平凡社「地図で見る東日本の古代」をベースにしました。明治の地図に線を引っ張ってくれているので、現代の地図に落としやすいのです。

これを種本にする

また、歩いたあとの感想を先に書いて恐縮ですが、古代東山道を歩こうとしても、その痕跡に触れられることはごくわずかです。古代の道路より後の道路の方が新しいので、古代というより江戸や、明治、昭和といった近代のものの方が目につきます。これ本当に古代の道路かなというモヤモヤはいつまでもつきまといますが、そんな中でも断片的な情報から古代を感じられるかが鍵になってきます。

ってなわけで、先週17日に一回目を歩いてきました。福島県の国見SAに車を置き、宮城県白石市の馬牛沼に向けて出発です。

当日のルート 地理院地図を加工・編集
国見というだけあって見晴らしが抜群。最高のスタート地点でした

国見SAの高台を少し下ると、貝田秋葉神社がありました。見たことがない石碑がたくさんありました。不思議な場所です。

疱瘡神碑。ほかにも見たことのない石碑がたくさんあった

貝田秋葉神社を左に折れて、旧東北本線跡を歩いていきます。明治に作られたレンガ橋や車両の車輪が展示され、立派な案内もありました。

この先を少し行ったところには、貝田番所があります。番所は江戸時代、藩境に置かれたもので、貝田番所は福島県側のものです。この先をさらに行くと、貝田駅や県境を越えたところに越河番所跡があります。こちらは仙台藩領を示すものになります。

車だと見過ごしてしまうが、4号線沿いに発見
越河番所跡

また、この県境付近には下紐の石がありました。説明文によれば、平安時代に坂上田村麻呂がこの地に関所を置いたのだそうです。また、用明天皇(在位585-587)の皇妃がこの石の上でお産の紐を説いたという伝説もありました。真偽はともかく、ここは古くから知られたところで、東山道が通っていてもおかしくないと感じました。

越河宿の入口には深山神社がありました。ちゃんと読めているか不安ですが、神社碑を見ると、祭神は大山祇命で本社は国幣大社に列せられているそうです。ずいぶん格式の高い神社のよう。

昭和15年の建碑ですが、謂れはもっと古そう

越河宿の入口には越河清水というバス停がありました。清水というぐらいだから水が流れているのかなと思って注意を向けると、たしかに沢筋を何か所か確認できました。生活に欠かせない水は昔から信仰の対象になっていたので神社と関係が深いですし(先ほどの神社)、飲み水確保のために水が湧き出るところに道を通すことは昔からやっていたことでしょう。それに、東山道ルートを作っているときに気づいたのですが、東山道が通っていたと思われるところにはこの清水という地名がたくさん残っていました。ここが東山道だと断言することはできませんが、こういう一つひとつから痕跡をつかんでいくのが面白いです。

防火水槽に貯めている水
下水とは思えない水が流れていた

刈田三十三札所の一つ定光寺を抜け、諏訪神社に向かいました。総本社となる長野県の諏訪大社は、1200年の歴史を持つ古い神社だそうです。ちょうど長野県出身のMさんが参加していたので、諏訪大社の謂れや御柱祭のことなど、たくさんのことを教えていただくことができました。境内には御柱が二本立っていました。種類は確認していませんが、諏訪大社を調べた後に考えてみると、もしかしたら杉とイチイだったかもしれません。それにしても、本宮への階段は大変でした。

刈田三十三札所というのがあるらしい
諏訪神社
高さ5mぐらいの御柱が二か所に立っていた
本殿までが大変

また、この諏訪神社から越河の景色を眺めていると、古代の道路を管理した駅家郷は、こんな感じだったのかなぁという思いがしてきました。古代の官道は山際に敷かれたこと、駅家(ウマヤ)と呼ばれる行政施設には田んぼや馬が割り当てられていたこと、駅子と呼ばれる庶民が駅家に従事していたこと、そのような駅家郷をめぐる情景がこの風景を通じて生き生きと立ち昇ってくる感じがしました。あくまで妄想にすぎませんが。

前方の溜め池は、この記事を書いている最中に斎川の水を貯めているところだと知った

その後、越河小学校、佐藤人形店、白鳥神社、越河駅と越えていき、電信柱に「越河北」という住所が記載された集落に出ました。この集落の一部なのかわからないけど、これより少し北にある民家の軒先で「磐城國刈田郡越河」の標柱を発見。2枚目の写真がぼやけて見えないけど、「明治廿二年(22年)」と書いていたように記憶しています。これはつまり、明治22年にこの辺りが磐城国だったことを示しているものだけど、自分は半信半疑でした(そもそも国じゃなく県だよね)。参加した人らは、廃藩置県の名残りだと言うけれど、明治22年にもなって今の県境が確定していないことなんてあるだろうか。ずっともやもやを抱えたまま家に帰って調べてみると、やっぱり刈田郡は明治9年8月21日に宮城県に復帰して以来、他の件に移管されていませんでした。うーん、どういうこと?ますます謎が深まってしまいましたが、面白いネタができました。

そうこうして、4号線に合流。レストランなどの廃墟を横目に、馬牛沼に着きました。馬牛沼は坂上田村麻呂が乗っていた馬が沼に落ちて死んでしまったことが由来だそうです。ここでも田村麻呂伝説が顔をのぞかせました。

渡り鳥の飛来地となっている

ということで、一発目にしてとても盛りだくさんの内容となってしまいました。それだけ取り上げるものが多かったということでご容赦ください。私個人としては、ちらちら覗く東山道の影に触れられている感覚があり楽しかったです。皆さんはいかがだったでしょうか?次回は1月23日、この先を歩き継ぎます。参加希望の方は専用フォームからお願いします。

距離:約8km
時間:約4時間
駐車場:国見SA一般無料駐車場、馬牛沼駐車場

20241217 東山道① 国見ー馬牛沼 / 利府トレイルプロモーションさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

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