4月の東山道を今書いたらめちゃくちゃ疲れた

レポート

全く書き忘れていることに気づかず、そのままにしていました。4月15日に歩いた東山道歩きのレポートを書きます。今日は6月23日ですが、投稿日もいじって4月分にしておきます。

ルート図 ※国土地理院地図を加工し使用

この日は大河原のフォルテから槻木駅まで。白石川の流路に沿って歩いていくようなルートでした。まず荒川という土手を歩き、対岸を目指します。今回は「まきばし」という橋を渡って対岸に出ましたが、奥州街道の頃はもっと韮神山のふもとのところから橋が架かっていて渡っていたようです。たしか今も橋桁が残っていたはず?!

荒川
昭和37年にできた橋。よく揺れました

韮神山に着きました。韮神山には三十三観音が祀られていました。というか、33体よりもっと多くありました。その中のひとつは、4月12日のイベントで紹介した馬頭観音でした。観音なのに怒ってる、だけど頭にお馬さんがいる姿がかわいかったです。また、今回は行きませんでしたが、もっと山の奥の方、太陽の村方面に行くと、東北最大級の横穴墓群があるようです。今より昔は、ものすごく信仰を集めた山だったかもしれません。

様々な由縁が書かれた案内板
韮神山中腹から船岡城址跡を眺める。手前荒川、奥白石川。
新しいですが、お目にかかれて感激でした!

立石という地名にもなっている山の斜面に立つ巨石を横目に、4号線を渡り白石川の土手を歩くことにしました。江戸時代の奥州街道は、今の船岡イオンの南側の道を北東に向かって進んだようですが、なんせ桜満開の時だったんで土手を選びました。といっても土手は途中で降りて、イオンと藤崎の敷地境界辺りに出ると、二本杉という一里塚にまつわる旧地名の石柱が建っていました。

さて、ここら辺から白石川が大きく蛇行していたのは昔のこと。今の流路は東西にゆるく蛇行を繰り返しながら槻木あたりで阿武隈川と合流しますが、昔は大きく北東向きに方向を変え、北側の頂点に達すると、今度は一転南東し、三角形の頂点を描くようにしてから柴田高校前の水田脇を通って現在の流路に戻ってきました。ちなみに白石川の堤防工事が大正6年(1917)に行われているので、このときに流路も変更されたのでしょう。この流路や船迫宿の位置関係は、柴田フットパスの「船迫宿コース」がわかりやすいので、リンクを参照してくだささい。私たちもある程度これに沿いながら、熊野神社や森合横穴古墳、御殿山などを通って、ぐるっと回ってきました。それにしても、街道沿いに設置されている説明版の充実ぶりは、外から来るものにとってはありがたいものです。

船迫宿の案内板
船迫は源頼朝が国衡の首実験を行ったところでもある。しばらく宿したところかもしれない
亘理山(阿武隈高地の北端)から見ると、こんな感じだったんですね
白石川の改修には東北本線との関わりもあったなんて
熊野神社
西迫間六号公園。森合横穴古墳もある
御殿山。上には登れなかったが、山頂に明治天皇も休憩した屋敷があったのだと思う
柴田高校の前の道路

柴田高校を通り過ぎると4号線に出ますが、私たちは4号線に出る前に左折し、両脇に田んぼを抱えた細い道を歩くことにしました。一応種本では、この辺りの道を東山道にしていたかと思います。ちなみに、奥州街道は4号線を突っ切って道なりです。ラーメン屋のみの家辺りで、二つ目の一里塚跡を示す看板がありました。

のどかな道でした
結局奥州街道に合流しました
明治になって一里塚は「有害無益の塚丘」とされたんだって

さて、ここから一行は白石川を併進し、東禅寺を過ぎ、阿武隈急行と東北本線の線路を過ぎたところから槻木宿へと入っていきました。槻木駅まであと少しですが、隣り合って存在している竹原神社や八幡神社の存在感がすごくて、最後までおなか一杯の旅となりました。

「距仙臺元標七里」-仙台のゼロ地点から約28㎞
東禅寺
線路には入りません
竹原神社の鳥居。稲荷ですね
とっても珍しい。河童かなぁ
八幡神社。前九年の際義家が勧請。頼義・義家の寄進状が保管されているらしい
八幡神社の参道。長くて趣がありました

ということで、今回は終わり。写真が多すぎて、手が疲れました。もう少し簡潔に書くようにします。

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