18日、東山道歩きの3回目を行いました。今回は白石城下から青麻山の麓にある刈田峰神社(蔵王宮)までの約10km。当日は最強寒波到来で利府は大雪。でも、白石の方に行ってみるとうっすら積もっている程度で、同じ宮城県でも全然違うんだなーと感じた一日でもありました。
前回のレポート👉東山道ハイク第2弾

朝9時、白石城(別名:益岡公園)を出発。
公園西側の益岡八幡から二ノ丸、神明社(しんめいしゃ)と進み、城下におりてからは白石の地名の由来となった「神石白石」、国の登録文化財である白石城厩口門(延命寺)を見てきました。神明社は807年田村麻呂の創建、元あった場所から明治時代にここに遷されたそう。神石白石は古来から神の依り代として祀られているそうです。延命寺のある不澄ケ池(すまずがいけ)という地名は、義経の家来・武蔵坊弁慶が薙刀を研いで出た錆がいつまでも残ったことが由来となっているのだとか。




その後、延命寺から白石大橋へ、白石川を越えてから左折し、世良修蔵の墓に立ち寄りました。とかく東北の人から嫌われている世良修蔵ですが、蝦夷征討の田村麻呂とは何が運命を分けたのでしょうね。それはともかく、ここは白石城の真北に位置し、1600年当時上杉領だった白石城を攻め落とすために伊達軍が陣を張ったところでもありました。地名に陣場とありその名残を伝えています。





それからしばらく奥州街道沿い(県道12号)に進み、白石市立福岡中学校がある辺りで国道の下をくぐって神明社に向かいました。神明社は白石城のところでも出てきましたが、元々あったというのがここのようです。境内には神明社のほか、手長神社、稲荷神社、青麻神社などがあるようですが、利府にも馴染みの深い青麻神社を思わせるものは見つけられませんでした。ちなみに手長神社は諏訪大社の末社のようです。東山道歩きも3回目になりますが、常に信州長野との関連を見出しています。


ここから一旦国道4号線に出、竹鶏ファームの脇を通って児捨川を渡り、鎌先道の起点に建つ深谷地蔵堂のところへ向かいました。児捨川のたもとには児捨川の名前の由来となった説明板があり、三つの説が書かれていました。少しずつ微妙に違っていますが、どれも日本武尊の御子がこの川に捨てられたことにちなんでいるそうです。ちなみに、子どもだけ死んだものと、姫が子どもとともに身を投げた二つのヴァージョンがあるようですが、どれも死んだあとに白鳥になったそうです。これが白石に残る白鳥伝説となっています。この川を挟んで離別したというエピソードは、何かの境界意識でしょうか。





それから東北自動車道を横目に見ながら北進し、途中白鳥神社に立ち寄ってから蔵王宮の刈田峰神社(白鳥大明神)方面へ向かいました。しばらく田んぼの中を横切るのどかな道が続きます。宮に近づくにつれ、前方の小高い山に愛着を覚えながら歩いていました。



宮に入ると、蔵王町立宮小学校のところに「街道の合流点 宮」の説明板が立っていました。これを読むと、この地は奥州街道と羽前街道の合流点で、羽前街道が使われていた奈良~平安初期にはあったであろうとのこと。奈良・平安期にあるもう一つの道は東山道しかないので、東山道の痕跡を追っている私たちにとっては大変心強い説明でした。刈田峰神社は延喜式内明神大に列し、元は蔵王山頂に鎮座していたものを801年に西山(遠刈田のこと?)へ遷したそうです。ここ宮にあるのは戦国時代以後のことです。最初に遷したのが801年なので、その前からあるというのはいつ頃からなのでしょうね。






ということで、今回の旅はここまでです。こうして歩いてみると、③の神明社と⑦の刈田峰神社付近の街道合流点が古代から残る痕跡として信憑性が高く、東山道の道筋を考える上で非常に重要なポイントだと感じました。実際に③と⑦がどう繋がっていたかは不明ですが、④堂田遺跡の位置を見ると、③から④沿いを直進し、どこかで右に折れ、⑦に向かう直進路と合流したのではないかと思いました。いずれにせよ、今回歩いた道においても青麻山はずっと目の前にあり、歌枕ともなった青麻山の存在感を強く感じたルートでした。
次回は3/20㈭、刈田峰神社から嶋館神社(大河原)までを考えていますが、山歩きがあるので短くするかもしれません。興味のある方は、専用リンクから東山道3/20分をチェックしお申し込みください。
それと、大河原の国指定登録有形文化財・佐藤家住宅で2/28-3/2の間イベントをするそうです。興味のある人はこちらもチェックしてください。⇒リンク

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